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2007年3月の4件の記事

2007/03/31

中原昭哉先生

以前、作曲を教えて頂いた中原昭哉先生に、リサイタルのチラシに掲載するキャッチコピーを頂きました。

「若き俊才、竜次の奏でるギターの調べは、古都を流れる川のように、聴く人の心と共に美しく響き合う。」

今日、中原先生のお宅へお伺いし、久しぶりにお会いしました。

再会をとても喜んで下さり、色々とお話や、また僕のスペイン留学期間中に作曲した作品なども見てもらって、その間の変化を指摘してもらったり、今後へのアドバイスなども頂きました。

中原先生は今まで、僕にとってはとても貴重なアドバイスを折に触れて下さったのでした。

いつの日か頂いた、

「作曲の道は永遠です。生涯努力を続けることが大切です。」

という言葉は、目先の失敗や挫折に悩んだりしていたその時の僕が、もっと長い目で、自分の人生全体で目標を見据えるような考え方の変化の1つのきっかけになったのでした。

またいつの日か先生にした質問、

「作曲家として世に認められるにはどうすればいいですか?」というものに、

「いい作品を書くことですよ。」と答えられたこと。

「演奏家として成功するにはどうすればいいでしょうか?」という問いにも、

「いい演奏をしていくことですよ。」

とてもシンプルな返答ですが、これは当たり前のことであり、真実だと思います。

先生からは、作曲を習ったこと以外にも音楽を志す上で大切なことを教わったと思っています。

ちなみに先生は、有名な「哲学の道」の近くにご住まいです。この遊歩道に沿って植えられた桜は満開で、大勢の花見客で賑わっていました。

Tetugaku1

Tetugaku2

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2007/03/19

東寺、南禅寺

京都九条にある空海ゆかりの東寺に行ってみました。ここは京都の象徴的な景観の1つである五重の塔があります。

僕も子供の頃、親に連れられて何度も来た覚えがありますし、近鉄電車に乗ったときや車で九条を通りがかるときなど、いつもそんな景色を目にしてきたので、東寺は僕の中で京都人としての心を自然と育んでくれていたような気もします。

Toji01

Toji02

Toji03

桜も咲いていました☆

子供の頃の気持ちに帰るようでとても懐かしいです。以前は砂利が敷かれた敷地全体にたくさんのハトがいたと思うのですが、今はほとんどいなくなっていました。どうしたんでしょうね。

その昔、ハトに砂利を投げていた悪ガキもいたそうな。。。(日本昔ばなしの市原悦子風に)

Warugaki01

京都市左京区にある南禅寺にも行ってみました。

ここは無関普門禅師なる人物を開山に開創されたそうです。

また歌舞伎や浄瑠璃などでは、伝説の大泥棒石川五右衛門がここの山門で見栄を切るというシーンが描かれているようです。

Nanzenji01

Nanzenji02

この古めかしい日本っぽさ、すごいですね。

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2007/03/16

葉っぴいてらす

久しぶりに京都駅構内をゆっくり歩く機会があったのですが、以前にも増してかなり拡張されていたので少しウロウロしてしまいました。

Kyoutoeki01

何か近未来都市を連想させるようなモダンなデザインの広い敷地に、伊勢丹と平行して長~い階段とエスカレーターが伸び、それに沿ってたくさんのレストランなどがありました。(以前はこの階段の長さが今の半分ぐらいだったように思うのですが。)

そして階段を登りきると、ちょっと洒落たガーデニングのテラスが・・・。その名も葉っぴいてらす。

Kyoutoeki02

素敵なネーミングですね。何だか幸せを運んでくれそうな気がします・・・。(薄笑)

Kyoutoeki03

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2007/03/06

即興演奏について

6月に行うデビューリサイタルでは大阪、東京、京都の3公演共に全編即興演奏によるプログラムを予定しています。即興演奏と言ってもあまりピンとこられない方も多いことと思いますので少し説明をさせて頂きたいと思います。

クラシック音楽の場合、即興演奏というのはとても珍しいことのように思われるかも知れませんが、歴史的に見てみると案外そうでないことが分かります。

ほとんどの歴史的な作曲家は即興の名人であったことは知られていますし、ギター音楽の世界でもそれは同じです。作曲家と演奏家の分業が一般化する20世紀に入って、楽譜通りに演奏するという習慣が根付き、現在僕達はその100年ほどの歴史の中にいます。

作曲家が作品を楽譜に記すとき、それはもともと内から沸き出る音楽的な自発性よりも、第三者に伝えるための普遍性や、または楽譜という枠の中に押し込めて書かれたもの、という風に僕は考えています。

作曲家自身の自演を聴く機会に恵まれたとき、多くの場合、楽譜にはできないような自由に満ち溢れていることがそれを示しています。(とは言うものの、作曲者自身がもともと楽譜の枠の中で作曲しているというケースも多々あると思いますが。)

なので演奏者は作曲者の音楽的自発性を十分に汲み取るべきで、そういう意味で楽譜から解き放たれることが大切だと思います。逆にそれを汲み取らずに、楽譜通りのきちんとした演奏というのは、僕はあまり良い音楽だとは感じません。

クラシックから離れて他ジャンルに目を向けてみると、即興というのはごく普通のことで、例え大まかな形はあっても、アドリブという形で即興が行われることはかなり多く、クラシック音楽ほど、完成された作品のみを演奏するという音楽スタイルは稀な方です。

人間のいるところには音楽がある。何万年、何十万年前の古代から音楽のようなものはあったはずですし、人間以外のほとんどの生物にも、何らかの形で音楽のようなものを持っていると思います。それらは内から出る自発性を持ったものだと思います。

楽譜というものは、音楽が高度なものに発展してきた上に生まれたもので、演奏者がそれを読み取って演奏することは大変貴重な伝統です。

しかし長所と短所は表裏一体であって、発展と後退も紙一重だと思います。楽譜の発展によって失われたものもあるはずです。ジャズやフラメンコ、あらゆるラテン音楽や世界の民族音楽がそのことに気付かせてくれます。

クラシック音楽の世界は別なスタイルの音楽表現、より自発性を重視した音楽表現にも目を向けても良いのではと思います。

楽器を問わず、クラシックの演奏家には大きく分けて、楽譜や音楽的背景に忠実な「従順タイプ」と、演奏者の個性が前面に出る「わがままタイプ」の2つに分けられるかと思いますが、僕は間違いなく「わがままタイプ」に入ると思います。僕には自分のカラー、自分の表現したいムードというものがまずあって、どんな作品を演奏するときもそれがどうしても出てしまうというタイプだと思います。

自分の音楽を追求するうち、即興演奏をするという発想が生まれてもうかれこれ10年近くになりますが、これは何よりも僕にとって自分の個性を最大限に表現することのできる手段です。

1つのコンサートをこういうアイデアで構成することについては賛否両論あることと思いますが、是非お聴き頂ければ幸いです。

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